上野の古墳探索
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榛名山 |
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妙義山 |
関東地方の古墳は2001年1月に真岡市や益子町など栃木県東部の古墳を訪ねて以来ほぼ一年ぶり、群馬県下の古墳を訪ねるのは今回で4回目ですが、最後に訪ねたのは1995年の8月ですので、早いものであれからもう7年の年月が流れています。過去3回の訪問で、有名?な古墳は見学してしまっていますが、今回は、高崎市を起点に群馬県北部から西部の古墳を中心に廻ってきました。
土曜日の早朝、東京から今回の旅の起点である高崎へと上越新幹線で向かいましたが、外は前日より降り続く雨、濃霧も発生し生憎のコンディション、関東では前回の栃木、前々回の茨城と雨に祟られ連敗中でしたがこれで三連敗と思いきや、冷たい雨はお昼を待たずに止み、その後はまずまずのコンディションとなりました。但し雨は止んだと言っても、泥濘と雨に濡れた雑草のおかげで、服はドロドロ、靴の中までビショビショになりながらの古墳見学と相成りました。一日目は、高崎市内から、榛名町、群馬町、吉岡町と利根川に沿って北上し、渋川市から吾妻川に沿って西に向かい中之条町、吾妻町へと、多少欲張りな予定を立てました。それでも最終見学地の吾妻町四戸の古墳群を見学し終えたのが18時前、その日の宿泊地である安中市の磯部には19時過ぎに到着できました。翌日は、雲一つ無い快晴のもと、富岡市から甘楽町、吉井町そして藤岡市と鏑川流域の古墳を見学、最後のおまけは埼玉県下の古墳も少々見学後、JR高崎線本庄駅から帰路に着きました。
一日目は高崎市域から利根川に沿うように北上、高崎周辺では横穴式石室を有す古墳後期の前方後円墳を幾つか見学しました。上小塙稲荷山古墳や金古愛宕山古墳では石室内部の見学もできました。お隣群馬町では古墳公園となって整備された保渡田古墳群を見学、7年前に訪ねた時には発掘調査中であった保渡田八幡塚古墳は、復元され、埋葬施設も公開されていて自由に見学することが出来ました。更に北上した吉岡町では、これも7年前に訪ねた南下古墳群を見学、精美な截石造りの横穴式石室をデジカメに納めご満悦、更に数年前に確認された八角形墳の三津屋古墳も見学でき有意義でした。霧が晴れて徐々に姿を見せ始めた赤城山を右手に眺めながら更に北上、子持村では中の峯古墳を見学、渋川市の虚空蔵塚古墳も精美な截石造りの石室、赤城村のいなり塚古墳は雑草がボウボウで石室の開口部を危うく見逃すところでした。吾妻川に沿って榛名山北麓を西に車を走らせ、中之条町では小型の石室墳を幾つか見学、さらに資料館で予定外の古墳を発見し、小渕氏宅に保存されている他久間8号墳を見学させて頂いた上に、貴重な資料までお分け頂けました。小渕さんには深く感謝致します。最後は吾妻町の四戸古墳群を見学後、宿泊地である磯部へと向かいました。知らぬ間に時折日が射すまでに天気も回復、長野新幹線安中榛名駅近くから眺めた妙義山が素晴らしかった。
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復元公開された三津屋古墳 |
二日目は朝6時半に行動開始、雲一つ無い快晴の元、安中市より富岡市へと車を走らせます。この日最初の見学地である、甘楽町の金比羅山古墳は大苦戦、しかし探している間に予定外の無名墳をゲット、お目当ての古墳は、L字形の横穴式石室、黒渕古墳は精美な截石造りの石室、お隣吉井町の薬師塚古墳も截石造りの石室で、石材の組み方が特徴的でした。同じ吉井町の多井良古墳も大苦戦、地元の方に訪ねても分からず、しかし最後は小学生の女の子が知っていて、わざわざ現場まで案内して頂き漸く探し当てることが出来ました、お母さん共々ありがとうございました。
吉井町のお隣、藤岡市の古墳も今までに2回訪ねています。始めて訪ねたのは確か1991年の秋、伊勢塚古墳と七越山古墳を見学しましたが、確か何処かの駅から2時間ほど歩いた記憶が蘇ってきましす。7年前に訪ねた時も見学していたので、今回は七越山古墳の隣接する栄安寺裏古墳群とその東古墳から出土したと言われる舟形石棺を見学しました。予定表を見直すと吉岡町の御穴塚古墳を見忘れたことに気づき再び吉井町へ、神社本殿裏に石室が開口していましたが、ユスリカみたいな虫が飛び回り気持ち悪かった。見学後は、平地神社古墳、霊符殿古墳とこの地域に特徴的な石室を見学しましたが、両者とも施錠されていて内部見学出来なかったことは残念です。最後は戸塚神社古墳を見学し、鏑川を渡り埼玉県へと移動、青柳古墳群、諏訪山古墳、帯刀古墳群を見学しましたが、埼玉県下の古墳はまた次の機会にと、早い時間に本庄駅から奈良へと帰途に就きました。本庄駅を出たのが14時過ぎ、近鉄奈良駅到着が20時過ぎ、やはり群馬県は遠いですね、疲れました。
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上野の横穴式石室 |
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南下古墳群(群馬県群馬郡吉岡町大字南下) |
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南下A号墳 |
南下A号墳 |
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南下E号墳 |
南下E号墳 |
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南下B号墳 |
南下C号墳 |
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南下A号墳は直径27mの円墳。南に開口する両袖型横穴式石室は、羨道部長さ3.95m・幅1.58mで壁石は硬質の角閃石安山岩を切り組んで構成しています。 南下E号墳は直径17mの円墳で、南西に開口する両袖型横穴式石室は、羨道の一部が破損していて全長は不明ですが、玄室は長さ2.76m・幅は奥で2.13m・前で1.78mの規模。南下B号墳は直径30mの墳丘の高い円墳で、自然石を乱石積みにした玄室の高い両袖型横穴式石室で全長2.7mの規模でドーム状の構造をしています。南下C号墳は円墳で無袖型横穴式石室が開口しています。 本サイトの視点改で述べた様に、奈良県桜井市の文殊院西古墳の石室との関連を考えています。後ほど「截石切組積石室」で示しますように群馬県の終末期古墳では、南下古墳群と同様に截石した小型の切石を積み上げて構築された石室が多く存在しています。古代日本における文化の移動は西から東、特に畿内から地方への一方通行と思われがちですが、私にはその逆の流れも存在していたのでは無いかと考えています。 |
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虚空蔵塚古墳(群馬県渋川市) |
虚空蔵塚古墳(群馬県渋川市) |
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直径13m、高さ3mの円墳。真南に開口する砕石切石積みの両袖型横穴式石室で、羨道がなく、玄室、前庭部という特異な構造をしています。玄室は長さ3.1m、入口幅1.45m、奥幅1.3m、高さ1.9mの規模。玄門の構造に特徴があります。 |
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上小塙稲荷山古墳(群馬県高崎市上小塙町) |
金井愛宕山古墳(群馬県群馬郡群馬町大字金古) |
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しどめ塚古墳 (群馬県群馬郡榛名町本郷) |
本郷中塚53号墳(群馬県群馬郡榛名町本郷) |
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中ノ峯古墳(群馬県北群馬郡子持村大字北牧) |
いなり塚古墳(群馬県北群馬郡赤城村大字樽) |
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樋塚古墳(群馬県吾妻郡中之条町大字平) |
小塚古墳 (群馬県吾妻郡中之条町大字横尾) |
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鏑川流域の横穴式石室 |
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金比羅山古墳 (群馬県甘楽郡甘楽町大字小川) |
黒渕古墳(群馬県甘楽郡甘楽町大字天引) |
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薬師塚古墳(群馬県多野郡吉井町大字穴場) |
御穴塚古墳(群馬県多野郡吉井町大字馬庭) |
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鏑川流域の横穴式石室 |
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平地神社古墳(群馬県藤岡市中大塚) |
霊符殿古墳(群馬県藤岡市藤岡) |
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戸塚神社古墳(群馬県藤岡市上戸塚) |
戸塚神社古墳(群馬県藤岡市上戸塚) |
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上野の舟形石棺 |
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保渡田八幡塚古墳(群馬県群馬郡群馬町保渡田) |
伝宗永寺裏東古墳(群馬県藤岡市上落合) |
上野の横穴式石室
一般的に日本の横穴式石室は大きく「畿内型」と「九州型」に分類され、原色日本石室図鑑の石室豆知識でも、その様に紹介していますが、関東の古墳を見学する度、その考えに疑問を呈すようになり、今回群馬県の古墳を見学し、益々その考えが強くなりました。関東地方では九州や近畿に比較して横穴式石室の出現は遅れますが、先行する九州や近畿とは、異なる構造の横穴式石室が広く分布しているように感じています。それは石室の形状、石材の積み方、そして発展の仕方にもその地域性が強く現れていると感じています。特に終末期に現れる截石切組積石室は、この地域独特の石室構造と知られていて、畿内をはじめとする他地域の影響を享受しながらも独自の古墳文化を発達した地域といえます。
上野地域の横穴式石室は、主に四度の新技術が外部から導入され、これを転機に大きく変化していると言われています。同地方の横穴式石室の変遷は、この四度の転換期を元に区分し、更に導入期にあたる第一段階では、石材の大きさや、石室構造などの変化過程が顕著であるため、これを二段階に区分し、合わせて以下の五段階に区分する考え方が一般的です。
第一段階(T期):横穴式石室の導入期で、多様な石室形態や、墳丘と石室組合せで、導入期の技術的な試行錯誤の状態が窺える。6世紀初頭〜6世紀前期。
第二段階(U期):導入期の横穴式石室の定着、技術的には延長の上に、墳丘と石室の関係が整合的となる。また特に無袖型石室で顕著な、羨道と玄室の区分が明確になり、石室を構成する石材も大型化する。6世紀前期〜6世紀中期。
第三段階(V期):加工石材の使用と石室の大型化。石材加工は技術的に完成度の高いもので、他地域からの専門的技術集団の招来が想定されています。6世紀後期〜6世紀末期。
第四撰階(W期):巨石墳の成立。前段階の石室規模の大形化から、更に巨石を用いて構築された石室が出現。畿内など巨石構造の横穴式石室の技術的影響を直接的に受けていることが推察される。6世紀末期〜7世紀初期。
第五段階(X期):截石切組積石室の成立。それまでの石材加工とは異なり、丁寧で精確な面加工と、硬質の石材を複雑にまた精巧に加工した石材で構築された石室の出現。7世紀中期〜7世紀末期。
以上は前方後円墳や大型古墳など首長墓規模の古墳に採用された横穴式石室の変遷を段階的に特徴づけた物ですが、同じ時期に、これらの古墳よりもかなり多くの小型古墳で横穴式石室がしか築造されています。これらの石室の特徴は必ずしも同時期の大型古墳の横穴式石室と構造的に相関しているとはいえませんので、大型古墳からの影響を受けた部分と、そうでない部分とに分けて考える必要があります。
上野地域で特に特徴的な石室は第五段階に出現した截石切組積石室で、奈良県の岩屋山古墳に代表される畿内の切石積石室の構造的、技術的影響を受けて、7世紀中期頃に成立したと言われています。その後、上野地域の特定の各小地域ごとに集中して築造されました。この切石積石室は、使用される石材が截断したような鋭い形状を示し、壁面の築成に切組積の手法を多用することから、特に「截石切組積石室」と呼称されています。しかし石材の加工法に特殊性があるわけではなく、この截石という呼称が適切なものであるかは議論の余地があるようですが、長い間固有の石室の名称として定着し、更に畿内の切石で構築された石室との混用を避けるためにこの名称が一般的に使用されているようです。
現時点で確認されている截石切組積石室は27基で、今後まだその数は若干増加すると言われていますが、それでもせいぜい30基前後にとどまること予測されています。これらの古墳が築造された7世紀中期から末期にかけての時期は、上野地域において群集墳造営の第二のピーク時期で、転石や川原石を使用した自然石積石室の小型古墳が各地で築造されていますので、この30基という数はそれに比べ極めて少ない数と言えます。従って石室構造自体も特別なもので、更に量的にも限定された数量しか造営されなかったことから、これらの古墳の被葬者は特別な階層の人々のものであったと考えられます。また、こうした截石切組積石室墳は、渋川市虚空蔵塚古墳のように独立墳として存在する場合と、吉岡町南下A号、E号墳の様に、複数の同種の古墳が近接して築造されるかであり、群集墳の中に存在することは認められませんので、この事からも特別な位地を持って存在していることが分かります。
こうした上野地域の截石切組積石室は烏・鏑川流域、九十九川・秋間川流域、榛名山東麓および赤城山南麓と、四つの小地域に別れて分布しており、石室の構造的特色や使用石材の相違などから、これらの石室を築造した技術者の系統が異なるものと考えられています。以下に簡単にその特徴を示してみました。
烏・鏑川流域:石材は凝灰岩・牛伏砂岩、奥壁が一枚石で構成されています
(山ノ上古墳、多胡薬師塚古墳など)。
九十九川・秋間川流域:石材は凝灰岩の截石、輝石安山岩の自然石で、やや粗雑な加工の石材が使用されています(二軒茶屋古墳など)。
榛名山東麓:石材は壁面に角閃石安山岩・天井石に輝石安山岩を使用。完成度の高い石材加工技術が駆使された石室です(南下A、E号墳、虚空蔵塚古墳、宝搭山古墳など)。
赤城山南麓:石材は角閃石安山岩と輝石安山岩を混用。玄門部を入口側から見て額縁状に刳抜く構造を有という共通性がみられます(堀越古墳、中塚古墳など)。
これらの石室は、上野地域の石室変遷の最終時期である第五期に築造されたのもですが、その初現として位置づけられるのが、吉井町の山ノ上古墳で、7世紀中期から第3四半期、続く総社市の宝塔山古墳が7世紀第3西半期、同じく総社市の蛇穴山古墳が7世紀第4西半期の築造と想定されています。その他の截石切組積石室も、7世紀後期の極限られた短期間に一斉に築造されたものと考えられています。また截石切組積石室の重要な特徴として唐尺を用いて構築された石室が少なからずみられることです。上野地域では従来、高麗尺が石室構築の尺度として使用されてきました。截石切組積石室の初現と言われる山ノ上古墳では高麗尺が使用されていますが、以降の宝塔山古墳や南下A号古墳など石材加工の技術が一段と飛躍した段階では唐尺使用が認められます。唐尺使用の上限を山ノ上古墳に求める見解もありますが、こうした榛名山東麓に集中する宝塔山古墳、蛇穴山古墳、南下A‐E号古墳などの高度な石材加工技術の導入と呼応するように、唐尺の使用が開始されたとしたら、これらの被葬者像を考える上で重要な因子であると言えます。以下に截石切組積石室の分布する四地域における、使用尺度の分布傾向を示してみました。
烏・鏑川流域:鏑川下流域右岸の多胡薬師塚古墳、多比良古墳の両者とも高麗尺。烏川右岸の丘陵地帯山ノ上古墳、山ノ上西古墳の両石室とも高麗尺を使用。
九十九川・秋間川流域:二軒茶屋古墳、万福原古墳が高麗尺であるのに対し、小間めおと塚古墳が唐尺。
榛名山東麓:虚空蔵塚古墳が高麗尺であるのを除くと、宝塔山古墳、蛇穴山古墳、南下A号墳、南下E号墳、庚申B号古墳のすべてが唐尺。
赤城山南麓:堀越古墳、長者塚古墳、中塚古墳、山内出古墳、中里塚古墳のすべてが高麗尺使用。
以上、唐尺使用の古墳が榛名山東麓に集中して認められることが分かります。また同地域では総社古墳群の宝塔山古墳と蛇穴山古墳、そして南下古墳群の南下A号古墳と南下E号古墳では、それぞれ唐尺が使用されているという共通点があり、両古墳が同一技術者集団により築造されたことが想定されています。これは烏川右岸の山ノ上古墳と山ノ上西古墳の両石室では高麗尺が使用されていることからも同様に言えることです。
群馬県下の横穴式石室墳はこちらのサイトも参考にされて下さい。
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