阿讃見墳録
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夕焼け・美馬町 |
四国といえば八十八カ所霊場巡りがあまりにも有名で、古墳のことなどあまり話題には上りませんが、今回紹介する徳島の吉野川流域や香川県の善通寺市、坂出市には、非常にユニークな古墳が数多く分布しています。
四国地方の古墳巡りは過去に数回実施していますが、初めて四国の古墳を訪ねたのは1993年の9月、香川県の高松市周辺の古墳と、愛媛県に近い香川県西端の町、豊浦町の巨石墳を見学しました。その時は四国を訪ねるのも生まれて始めて、瀬戸大橋を渡った時は子供のようにワクワクし瀬戸内海の景色を眺めていました。当時は古墳巡りも始めたばかりで下調べもいい加減で、今思えば非常に効率の悪い見学旅行であったことが思い起こされます。それ以外にも香川県は1996年の2月に訪ねていますが、その時は今回の二日目に訪ねたコースとほぼ同じ、高松市から坂出市、そして善通寺市の古墳を訪ねました。その翌年1997年11月には徳島県下の古墳見学を実施、抜けるような青空の下、吉野川流域の古墳を二日に渡って見学しました。一日目のコースはこの時に廻った古墳の一部ですが、今回ここで紹介する以外にも多くの特徴的な古墳が存在しています。それらの古墳についてはいずれ「古墳の穴・四国地方」で紹介することにいたします。2001年9月には長年の念願であった愛媛県の古墳巡りが実現、この時は3日間の旅程で廻りましたが、天気も古墳も抜群で実に実りの多い古墳探索を経験することができました。
阿波の古墳
阿波における古墳造営の中心地は、県北部を流れる吉野川下流域北岸の阿讃山麓地域、及び南岸の鮎喰川水系地域にあります。阿波の古墳文化の特徴をみてみますと、前期では積石塚が多く、中期には周濠を有す古墳が二例しか認められないこと、また後期では吉野川中流〜上流域に段ノ塚穴型石室や忌部型石室と呼ばれる特異な横穴式石室が見られること、そして6世紀代に前方後円墳がほとんど造営されないことなどが上げられます。また阿讃山脈をはさんで対峙する讃岐地方とは積石塚という共通性を有しますが、讃岐地方で盛行した舟形石棺は最近確認された大門古墳の1例のみで、古墳時代全般を通じても刳抜式石棺は希な存在です。大門古墳の石棺は火山石製の刳抜式舟形石棺であり、同様の石棺が香川県の津田湾周辺に分布中心がありますので、赤山古墳などを中核とした勢力との関連を考えるべきかも知れません。
古墳時代前期では畿内的特徴の古墳も造営されますが、中期では畿内の巨大古墳を中心に盛行した周濠を有す古墳が2例しか認められないことなどを考えますと、一時期阿波地方は畿内政権との親密性は薄かったと思われます。中期後半に古墳の造営が途絶えた後、後期には他国と同様に阿波でも横穴式石室が受容されますが、その特徴は吉野川下流域では畿内的な、そして中流・上流域では在地的で個性的形態の石室が出現しています。この石室形態の相違は文化的背景の異なる集団の存在、すなわち阿波国府の置かれた地域に属す前者は、畿内政権と密接な関連を持つ集団であり、それに対して後に四国最古の寺院である郡里廃寺を建立した後者の勢力は、畿内政権から独立性を保ち、独自の文化を発展させた集団であったと推察されます。そして畿内からの独立性は古墳の造営が終焉した後の律令時代にも継続されたと考えられます。
吉野川上流域での代表的な前期古墳は、阿讃地域に特徴的な積石塚である丹田古墳で、標高260mの高所に単独で立地しています。埋葬施設は竪穴式石室ですが、その天井の構造が、合掌式であり讃岐で発達したそれとは形式に異なっています。その後中・上流域では目立つ古墳の造営は全くみられませんが、後期になると先に紹介したこの地方独特の横穴式石室墳が爆発的に造営されました。
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愛宕山古墳の竪穴式石室⇒内部はこちら |
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八幡神社古墳の天井石 |
阿波地方での古墳分布の中心地域である阿讃山麓地域では、萩原1号墓など積石塚の造営に始まりますが、その後は宝憧寺1号墳等の盛土による前方後円墳が続き、5世紀初頭には竪穴式石室を埋葬施設とする前方後円墳である愛宕山古墳や、平地に単独で立地し周濠を有す円墳である土成丸山古墳など畿内的な古墳が造営されました。この地域では6世紀後期に横穴式石室が登場し、その代表である、ぬか塚古墳は方袖型横穴式石室を埋葬施設として持つ円墳で畿内色の強いものになっています。もう一方の古墳造営の中心地である鮎喰川流域では、銅鐸が大量埋納された矢野遺跡などの大集落を基盤に古墳が造営されます。この地域では布留式古段階で県下最古の前方後円墳である宮谷古墳を初現に、円墳に突出部を有す積石塚の奥谷2号墳、県下唯一の前方後方墳である奥谷1号墳と、5世紀中期まで断続的に古墳の造営がみられますが、それ以後6世紀前期までの古墳は明確ではありません。
徳島県下の大型横穴式石室では、美馬町太鼓塚・棚塚・小松島市弁慶の岩窟古墳などが知られていますが、ここでは先行する大型古墳は見受けられていません。一方、後に阿波国府が置かれる気延山山麓には、ひびき岩古墳群など巨石を使用した横穴式石室墳が山麓一帯に造営されます。そして7世紀に入ると矢野古墳や穴不動古墳など極めて畿内色の強い古墳が出現します。穴不動古墳は徳島で最も前期古墳の集中する地域に築造されていて、玄門立柱の構造は香川県の大型横穴式石室と共通性を持ち、巨石を用いた石室は角塚古墳に類似していることが知られています。徳島県でも地域による横穴式石室の構造的差異が確認されていて、穹窿式の天井を持つ段の塚穴型が美馬郡を中心に、また天井部が特別に高くなく、玄室の奥壁コーナーを隅丸に作る忌部山型が麻植郡に分布しています。前者は佐伯氏との、そして後者は忌部氏との関連が指摘されています。また徳島県の吉野川流域では石棚が付設された横穴式石室が、吉野川中流域の北岸に密集していることも四国の古墳文化を語る上で見逃せません。石棚付きの石室はこの地域以外にも香川県高松市の久本古墳、愛媛県北条市の新城3号墳など、四国地方全域で散見されますが、特に吉野川中流域に顕著に分布することは興味ある事実といえます。
吉野川中流域の横穴式石室墳
今回見学した横穴式石室墳では、平野古墳と穴観音古墳以外は穹窿式石室の横穴式石室です。玄門部は眉石の直ぐ上から、奥壁は最下段の石から斜めに積まれています。側壁は若干持ち送り気味ですが、それ程強い持ち送り構造では無いように感じました。海原古墳では一方の側壁が取り除かれているので、弓状に弧を描く石室の断面構造が良く分かりました、これこそが穹窿式石室という物なのでしょう。桜井のカタハラ1号墳も穹窿式石室とのことですが、随分異なるイメージでした。石室の平面プランは三味線胴型、玄門の袖石から弧を描いて外に広がりその後直線上に奥壁につながっていきます。玄門の構造は九州・筑後地方に多い、胴張り型の石室と同一の構造でした。田主丸町の善院1号墳の玄門部と見比べて頂けると良く分かります。これらの穹窿式石室は吉野川流域でも中流域の北岸美馬町付近にのみ集中して見られる特異的な石室構造です。
石棚付き石室も吉野川中流域に特徴的な石室です。ほとんど全てが穹窿式石室とペアになっていて、穹窿式石室には石棚が付設された石室が約半数存在していると言うことになります。一方香川県高松市の久本古墳は例外的な存在、香川県下で石棚の付設された石室は現状ではこの久本古墳のみと言われています。石室の構造も吉野川流域の石室とは全く異なり、私が見た印象では九州の筑後川流域の石棚付き石室と似ている印象を受けました。昨年秋に訪ねた愛媛県でも石棚付き石室がありましたが、その地区全体からすれば稀な存在です。従っていかに美馬町を中心とする地域に石棚付き石室が密集しているかおわかりになると思います。石棚付き石室は徳島県の対岸和歌山県の紀ノ川流域に多く見られますが、石棚という共通性を除けば石室の構造の類似性はむしろ低いように思えます。この吉野川中流域の石棚付き石室が紀ノ川流域の影響下で成立したとしたら、もっとも近い下流域に存在しないことが理解できません。いずれにしても大きな謎を秘めた石室です。
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野村八幡古墳(徳島県阿波郡脇町) |
荒川古墳(徳島県阿波郡美馬町) |
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讃岐の古墳
讃岐の古墳文化の特徴としてまず上げられるのは積石塚と舟形石棺です。積石塚古墳では石清尾山古墳が代表的ですが、その他にも爺ヶ松古墳(香川県高松市)、また讃岐以外でも萩原1号墓(徳島県鳴門市)、丹田古墳(徳島県加茂町)、また大分県と対峙する愛媛県の津島町高田にも30数基の積石塚があり、四国全域に分布しています。讃岐地方における古墳の分布を調べてみますと、とりわけ西讃岐に多く分布しています。それらはいずれも水利の良い、平野を見おろす台地上が多いことが特徴です。讃岐地方を代表する古墳としては高松市の石清尾山山塊に築造された積石塚群、石清尾山古墳群がまず上げられます。この古墳群は4世紀前期から5世紀初頭にかけて築造されたと思われる古墳群ですが、通常の盛土墳とは異なり、人頭大の板石を積み上げて墳丘を構築するもので、非常に地域性に富んだ古墳といえます。この様な形態の墳墓は朝鮮半島の北部、鴨緑江周辺に多く認められますが、それらは紀元前1世紀から紀元2世紀のものと言われていて、石清尾山古墳群との直接的な関連は薄いと考えられています。また日本列島でも長野県などに古墳後期の積石塚が存在しますが、それらも築造年代が異なり石清尾山古墳群との関係は希薄であると思われています。石清尾山古墳群と同時代のものでは中山大塚古墳(奈良県天理市)など、墳丘に葺石が厚く積み上げられた古墳も存在することが知られています。これらは積石塚ではありませんが埋葬主体部なども竪穴式石室と共通である事などから、もしかしたら石材の入手が困難である地方では盛土の古墳の上に葺石を厚く敷いて積石塚風に築いたことも想定され興味深いものです。積石塚の様に割石を積み上げて築造された墳墓形態は、中国東北地方から朝鮮半島北部の騎馬民族文化圏に多く分布しますので、この石清尾山古墳群を築いた勢力は彼の地からの渡来者であった蓋然性は高いといえます。
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野田院古墳(香川県善通寺市) |
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磨臼山古墳刳抜式割竹型石棺 |
次に舟形石棺ですが4世紀中頃になると讃岐地方では、刳抜式石棺が多く採用される様になります。四国地方ではでは瀬戸内側の愛媛県と香川県に刳抜式石棺が分布していますが、そのほとんどは香川県下に存在しています。これら讃岐の刳抜式石棺は、形態上舟形石棺に分類されていますが、通常舟形石棺はその断面が扁平な円形をしているのに対して、讃岐地方の舟形石棺の断面は四角形に近く、形態的に多少異なる特徴を有しています。ただ全国的に見ても讃岐の刳抜式石棺の成立が最も早く、初現期の舟形石棺は断面が四角形であったものが、時代が下るに従い楕円形に変化したとも考えられています。四国地方の刳抜式石棺ではは、国分寺町鷲ノ山産出の鷲ノ山石(石英安山岩質凝灰岩)と津田町火山の火山石(非晶質凝灰岩)石材の2種類が採用されていますが、九州の阿蘇熔結凝灰岩製の刳抜式石棺も4例知られています。これらの刳抜式石棺は割竹形木棺を原型に創出されたといわれ、その典型が先の石清尾山積石塚群に存在する石船塚古墳の割竹形石棺です。積石塚群に刳抜式石棺の初期のものが採用されていることは、その成立に積石塚を築いた石材加工技術に長けた技術者集団が関与していたことが十分考えられます。鷲ノ山や火山石は、四国以外にも運ばれており、鷲ノ山では大阪府柏原市の松岳山古墳の長持型石棺材や、勝福寺に保存されている割竹型石棺で用いられています。ここで注目されるのは松岳山古墳の周辺に積石塚古墳が分布することで、この石材と積石塚古墳との関連性を強く示唆するものとして注目されます。また火山石製の刳抜式石棺は四国の東部に分布中心を持ち、最近は徳島県鳴門市の大代古墳から出土し注目されました。この火山石も四国以外の地に搬出されていて、岡山県鶴山丸山古墳、大阪府和泉市の乳の岡古墳で確認されています。また奈良県奈良市の佐紀陵山古墳で過去に確認された石棺の蓋石状石材もこの火山石製であるとの見解も示されていて、巨大古墳の造営と火山石との関係もまた非常に興味あることです。一方、九州より運ばれた阿蘇熔結凝灰岩製の石棺4例は、愛媛県松山市の石棺、香川県観音寺市丸山古墳および青山古墳の石棺、そしてもう一つの例は香川県高松市長崎古墳で確認されたものです。香川県観音寺市を含んだ愛媛県川之江市を中心とする東予地域と、愛媛県松山市から北条市を含んだ中予地域で、共通する固有の古墳文化が認められることは非常に注目されます。
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6世紀になると讃岐でも他地方と同様、各地で横穴式石室墳が築かれます。香川県下で最も古いと思われる横穴式石室は、香川県善通寺市の王墓山古墳の横穴式石室で、興味あることに石屋形を有す両袖型石室で、筑後から肥後地域との関連を伺うことができます。6世紀後半以降、四国地域でも巨石墳が相次いで築かれますが、讃岐の横穴式石室墳の特徴として、腕貸塚古墳(香川県豊浦町)や、綾織塚古墳、醍醐3号墳(香川県坂出市)、新宮古墳(香川県府中町)の様に複室構造をとるものがあり、九州、特に周防灘沿岸地域(福岡県苅田町の綾塚古墳など)の石室との関連が認められることも注目すべきです。また玄室や羨道の壁に線刻画が描かれたものが存在することも特筆すべきものです。線刻画を有す石室は九州地方に比較的多く分布しますが、同様に九州地方に分布中心を持つ彩色壁画とは文化的に異なるものとされています。興味あることにこれら線刻画を持つ横穴式石室は沿岸部に多く見られ、それらの線刻画には舟の画が多く見られることなどから海との関連が強く示唆されています。刳抜式石棺における九州阿蘇の石材の存在や線刻画石室の存在などは、瀬戸内海を介した文化交流が盛んであったことを示すものであり、ここ讃岐は対岸の吉備と同様、畿内と九州を結ぶ瀬戸内海の水上交通の要衝として、非常に重要な拠点であったと思われます。実際に狭隘な土地でありながら前方後円墳が74基も分布することは、四国地方でも早い時代から非常に発達した地域であったことが伺えます。
讃岐の線刻画横穴式石室
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宮ヶ尾古墳(香川県善通寺市) |
宮ヶ尾古墳・線刻画 |
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鷺ノ口1号墳(香川県坂出市) |
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